1週間前の9月17日、深夜、バイロンベイのデレク・ハインド師の家が全焼しました。
デレクさんと息子のロクハンは無事でしたが、愛犬は他界、しかし全ての財産を失いました。
人は全てを失い、次を探す・・・
デレクさんならそう言うでしょう・・・
(1980 片目を失い・・・)
かつてデレクは南アフリカ・ジェフリーズベの試合中にボードは刺さり片目を失明。
翌年、誰もが引退すると思いきや、翌1981年ワールドサーキットを回り自己最高位の7位に入り引退。
ちなみにサイモン・アンダーソンがスラッシャーを世に送り出した1981年ベルズのビッグウェーブのコンテストで、デレクはサイモンをツインフィンスタビライザーのガンで勝ったにも拘らず突然の試合時間延長で勝利を逃した。
このヒートがルール通りに行われたら今のトライフィン時代は変わっていただろう。
1997年にはトラインフィンブームを終焉に追い込むフィッシュムーブメントを「リトマス」で見せる。
フィッシュが時代のメインストリームになると何事にもアンチなデレクは、フィンレスという過去にないサーフィンを始め、完成させる。
私が初めてデレクを見たのは、1980年池袋のサンシャインビルで開催されたサーフィン展示会だった。ホットバタードの一員として来日していたが、親分テリー・フィッツジェラルドを筆頭に全員裸足だった。
次は2000年シドニー・ノーザンビーチーズ・モナベールの
KEYOのファクトリーだった。70年代の古くて打ちひしがれたシングルフィンをリペーアーしていた。
数日後、パーミーのパーキングで私はデレクに救われた・・・
サーフィンをしている間、ビーチに愛犬シャイニー&ブラウニーを放していた。
車に戻ると、レインジャーが「犬の放し飼いは禁止、で2頭で罰金200ドル」を宣告中にデレクは古い三菱で私の車に横付けした。ドアが開くとデレクの犬が飛び出し走り回った。シャイニー&ブルウニーもデレクの犬。ジャック・ラッセルのジョックと走り回り、そのを見たレインジャーはデレクに「すぐに犬をつなぎなさい」と命令した。
驚くことは、その後に起こった・・・
デレクは「うちの息子に何か?」と告げたのだ。
レインジャーは金属バットで蚊を叩くかのごとく、これ以上は無理と判断して消えた。
かくして私は罰金を払わずに済んだ。
金以上に精神的に救われた。
そのを機にデレクは私のパーミーの家にジョックと遊びにくるようになり数年後、私はデレクが暮らすニューポートに越した。
家族ぐるみで付き合い、キングアイランドに行ったりサーフィンの指導を受けたり、記事を書いてもらったりインタビューしたり、サーフィン映画に連れてってもらったり・・・
デレク・ハインドは私のサーフィンの師である。
ちなみにアルビー・ファルゾンはグールーで、ノリさんは先輩である。
(家を失い・・・)
デレクさんのために出来ることは金だ。
同じ志を持つ同志は、以下にドネーションをしてほしい。
ドネーション(寄付金のご協力)のページはコチラ
それからDVD"Litmus&Glass Love"の売り上げは送料を除き全てを、また順次、手持ちの使用していないサーフボードもアップして販売するが、こちらの売り上げも全てデレクさんに送ります。
どうかご協力ください。
OZARTSURF 矢口唯史
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